カテゴリー
プラモデル 旅行 歴史探索

三笠 宗像神社 羅針儀

戦艦三笠 羅針儀

記念艦三笠、艦橋に行くと昔ながらの羅針盤があります。

私は記念艦三笠の羅針盤が本物と思ってました。もしくは、本物のレプリカかなぁと。

福岡宗像大社の宝物殿に雨宿りで寄った際、衝撃の事実が浮かびあがりました。

 

宗像大社

福岡県宗像市にある神社です。※世界遺産にも認定されています。

前回行ったときは夕方ごろでしたので本門は閉じていました。

今回こそはと意気込んでいったらまさかの大雨(><)

しかし、はるばる宗像大社まで来たのだから恩恵をあやかりたいと思い

宗像大社宝物殿で雨宿りを決行しました。

(wikipediaより)

宗像大社辺津宮

本殿(第一宮、イチキシマヒメを御祭神とする。宗像氏貞の建立で、中津宮の本殿を参考したといわれる。重文)
拝殿(切妻屋根、宗像宮の額がかかる。小早川隆景の建立。重文)

 

宗像大社宝物殿

古来から朝鮮・中国と行き来をしていた場所で、歴史的重要なものがたくさんありました。

そこで目についたのが三笠羅針盤の奉納でした。

 

戦艦三笠 羅針儀 発見

「軍艦三笠羅針盤

明治三十八年(1905)五月二十七日、沖津宮鎮座の沖ノ島にて日本海海戦が行われ、日本が大勝利を治めた。

当時の連合艦隊旗艦「三笠」搭載の磁気羅針儀を、戦後宗像大神の神助を謝し、東郷平八郎元帥の発意によって大正十三年海軍省が奉納したものである。」

との記載がありました。

記念艦三笠に載っている羅針儀は後のせだったと知りました(汗)

 

戦艦三笠模型

カテゴリー
プラモデル 旅行 歴史探索

山内短五糎(サンチ)砲

佐世保へ

佐賀から何気なく佐世保へ移動したときに

目に入って来たのは米軍佐世保基地でした。

佐世保=造船 は言うまでもなく日本海軍にとって大切な場所です。

明治時代は「佐世保海軍工廠」と呼ばれていました。

初めての佐世保で佐世保バーガーを探していたときに

自衛隊が所有する佐世保資料館が目に入ってきました。

 

山内短五糎(サンチ)砲

資料ではなんども文字を見たことがある山内短五糎(サンチ)砲。

今回初めて見る事ができました。

佐世保資料館入り口前に山内短五糎(サンチ)砲が飾ってありました。

日露戦争で山内砲は一等巡洋艦 春日、日進 で使用されていたものです。

当時初期の軍艦はイギリスから購入していたので

アームストロング砲が主な砲弾でした。

 

山内万寿治の発明考案

山内 万寿治(やまのうち ますじ)1860年4月19日 – 1919年(大正8年)9月18日1902年5月、海軍少将に進級。

呉鎮守府艦政部長を経て、日露戦争では呉海軍工廠長。

装甲巡洋艦の建造を主張、監督して主力艦国産化への道を拓いた。

1905年11月、海軍中将となり呉鎮守府長官。

現役将官が民間企業の顧問となるのは極めて異例であったが日本製鋼所の設立に際して海軍から顧問として参画、兵器国産化に尽力した。

(wikipediaより)

 

 

 

日露戦争時山内砲を使用していた軍艦

模型リンク(シールズモデル) 1/700 1/500(日本海海戦参戦艦隊シリーズ)

一等巡洋艦 春日 47mm 軽山内砲 6 基

一等巡洋艦 日進 47mm 軽山内砲 6 基

一等巡洋艦 八雲 47mm 軽山内砲 8 基

一等巡洋艦 吾妻 47mm 軽山内砲 8基

一等巡洋艦 出雲 47mm 軽山内砲 8基

一等巡洋艦 磐手 47mm 軽山内砲 8基

一等巡洋艦 浅間 47mm 軽山内砲 8基

二等巡洋艦 笠置 47mm 軽山内砲 6基

二等巡洋艦 浪速 47mm 軽山内砲 2基

二等巡洋艦 高千穂 47mm 軽山内砲 2基

三等巡洋艦 新高 47mm 軽山内砲 4基

三等巡洋艦 対馬 47mm 軽山内砲 4基

 

佐世保史料館『セイルタワー』

https://www.mod.go.jp/msdf/sasebo/5_sail_tower/5_sail_tower.html

佐世保に自衛隊が展示する海軍の歴史資料センターがあります。

1階の受付を終えると 7階から順に日本海軍の歴史について展示がしています。

7F 展望ロビー・映像ホール
6F 海軍の軌跡Ⅰ 佐世保鎮守府史料展示
5F 海軍の軌跡Ⅱ 海軍の史料展示
4F 海軍の軌跡Ⅲ 海軍の史料展示
3F 海上自衛隊Ⅰ 艦艇等模型展示
2F 海上自衛隊Ⅱ 史料閲覧室
1F 企画展示・佐世保地方隊史料展示

日本海軍の歴史はペリー来航から始まることを知り驚きでした。

黒船という大きい黒い船が遠洋から迫ってくることにより

当時の江戸幕府が危機感を感じ、海軍伝習所を作り鎮守府へ発展していく。

実質開国としての日米修好通商条約を経て、日露戦争(日本海海戦)へ大きな戦争時代へ突入。

そして太平洋戦争へ。

「砕氷艦しらせ」や現在の海上自衛隊の情報など何度でも足を運びたくなる施設となっております。

是非長崎へ立ち寄りの際は足を運んでください。

 

カテゴリー
イラストレーター プラモデル

駆潜特務艇-日本人を救った名もなき船

歴史にかき消された駆潜特務艇

 

 

駆潜特務艇は知る人しか知らない歴史に重大な位置をしめる特務艇です。

 

シールズモデルズ  駆潜特務艇

 

 

windowsのゲームでマインスイーパーというゲームをご存知でしょうか?

 

地雷・機雷の掃海作業 がマインスイーパーです。

 

 

ゲーム上では何回でもやり直せるが、実際は地雷・機雷を踏んだら死亡です。

 

 

この駆潜特務艇は歴史の渦に巻き込まれた船です。

 

 

木造船ならではの仕事

 

第二次世界大戦、日本とアメリカの戦争時

日本列島周りには数えきれないほどの機雷がばらまかれていました。

 

二次大戦中は

船団護衛、対潜掃蕩、哨戒、浮流機雷を行う。

 

 

大二次世界大戦が終わるときから大変な仕事が待っていた

 

 

日本海には無数の機雷が海にばらまかれていました。

日本には物資を運ぶ道具は船のみ

※飛行機は国産を作ることが許されない状況にあったため、船のみとなりました。

しかし、日本のまわりの海には機雷だらけといってよいほど機雷に囲まれていました。

その結果、物資運搬がほとんど出来ない状況でした。

 

このまま行くと日本国内の1/6の人口が餓死で死ぬという事態にまで事態は深刻化していました。

当時の日本の人口は6,000万人、その1,000万人が餓死する計算になります。

 

もしかしたら、この世に生まれてこなかった人もたくさんいるのでは

と思うとぞっとします。

 

日本国内で物資運搬、兵力を外地で運ぶ際

機雷のせいで船・人が海に吸い込まれていきました。

 

 

駆潜特務艇に下された任務は磁気機雷の掃海。

 

ここから壮絶な機雷との戦いが始まりました。

 

駆潜特務艇の作りは木製

磁気機雷は走行する金属に触れると爆発するので

機雷処理班は慎重に機雷を探し、除去していくという果てしない作業を

行いました。

 

今でも香川県の金刀比羅宮へ行くと掃海の記事と

碇が祀れれております。

 

日本の掃海部隊は優秀でした。

 

その当時、敗戦国であったため

船に自国の国旗を掲げられず、ひたすら掃海を続けていた

やっと航路が開けるという道のりがありました。

日本にとってこの航路

その後、掃海部隊の優秀さは朝鮮特別掃海艇へと繋がっって行きます。

 

今回の仕事は駆潜特務艇トレース

 

下地は写真を線がにしていくトレースでした。

 

イラストレーターの基本という感じで

無心になって線がを書いていく。

 

トレースはかなりやりこんでいるので

どのものが来てもお客様を満足できるレベルで

提供できます。